昭和43年7月8日      朝の御理解

御理解第13節「神は向こう倍力の徳をさずける」



 神は向こう倍力の徳をさずける。皆さんがこうやって信心の稽古をなさる。例えば毎朝朝はようから、こうしてお参りをして見える。そういう信心が続けられていきよれば、神様は徳を授けて下さる方。
 (そこでは?)ないと思うですね。何十年参っておっても、参っておるから徳が頂けるということじゃない。ここには、神は向こう倍力の徳をさずけると。私共が百なら百の思いというか、百の力を持ってお参りをして来る。
 だからこれは、神は向こう倍力の徳をさずけるということは、お参りをしてくれば徳をさずけるというのじゃない。神が向こうということは、神に向こうて行くという事。教会に向こうて来るといったようなことじゃない。
 でなかったら、十年なら十年も信心させて頂いておる者は、いうなら十年向こうて来たら二十年分の徳を受けとかにゃならん。そういう神に向こうということはね、いわゆる神に心が向こうて進んでおらなければいけないという事だと思うですね。
 そこで皆さんが思うてみなければならんことは、はーもう自分は、もう合楽に十から一八年間、まる一八年間もお参りをしよる。徳というものを、徳と感じられるようなものは身に受けて(いない?)とするならですね、それは一八年間信心は続けられて来た。いわゆるお参りはしてきたけれども、ね、神に向こうてはいない。
 わが心が神に向こうのを信心というのぞ、と仰るように、自分の心が神に向こうておらなければ、向こうて行く、進んでおらなければね、徳にならんのです。そういう信心が、出来ていく時に、やはり五十の信心が出来れば、百の徳を受け、百の徳、信心が出来れば、二百のいわば徳が、こりゃもうはっきり数字に現れるといったようなものでもありますまいけれども、まぁそういう風に感じるのです。
 私は思うのですけれどもね、信心をさせて頂いておるけれどもあの、一向も変わらない人がある。十年前も、十年この今日も変わらない。いわゆる宗教から生まれてくる感動がない。まぁ宗教的感動すらもない。
 ね、宗教的じゃなくて、やはり宗教させて頂く者の感動というものがなからなければいけないと思うね。その感動が、上がって行くという信心。
 教えを頂く。ただこうやってならここに五十名なら五十名の方が、御理解を頂いておるといたしましょうか、ね。聞いている人、頂いておる人。ん、ここに並んではおるけれども、聞いていない人もある。
 聞いていない人はですね、いわゆる教えを一つも聞きよらんからですね、全然変わらないですね。変わらない人は、もうき、参ってきよっても、教えを頂いておらんのと同じ事です。けども教えだけはよう聞く人がある。
 いわゆるその教えを分かっていくという。で、その人達は大体こう宗教的一つの、情操とか、言うかね。まぁ態度といったようなものが段々身に付いて来る。分かるからね、話しを聞いて分かるから、そういう信心させて頂く者はこういう風にあらなければいけないといったような、まぁ実意丁寧の形だけでも、身に付いて来るわけですね。話しを聞いて。
 ところがこれでは、今日私がいうその、倍力の徳にはつながらん。そこにその、教えを頂いて、それを行ずる人。教えを聞いて本当に行ずる人でなからなければ、宗教から、宗教的ではなくてね、宗教する者でなからなければ、頂けない感動ともうしますかね。
 宗教から生まれて来る、いわば有り難さと例えば申しましょうか。これは真に宗教する者でなからなければ、頂けない感動であり、感情である。又は、そういう信心ですね。
 そういう信心を神に向こう信心というのである。だから、教えが分かるというだけでは、宗教的いわば、宗教的情操が身に付いて来る。とこがね、これではね、おかげにつながらん、いやお徳につながらない。
 私の知った人にそんな人が、もう本当にあの心がけの良い嫁さんです。だがもう非常に難しい家庭で、まぁ普通普通のもんなら、とても持たまいというような家庭。ところが何時もその嫁さん、まぁ何時も(こがやか?)そうにしている。ある時に、その嫁さんにですね、ある人がもう本当にあなたは感心なこっちゃあると。
 もう何時もあなたは、あのお炊事場をされるのに、お炊事をされる時でもね、もうこう鼻歌でも歌いながらね、もう楽しそうにその炊事をしておられるというのである。それでその嫁さんがね、その(ひかえさく?)の人に言うた(おうせ?)もう私が歌ば歌いよると楽しそうに聞こえますかなっちいうて。本当に楽しゅうなからなければ歌は出らんてこういうわけなんです。
 ところが実際(おうせも?)私はあなた達が歌いよる時には、もう泣こうごたる時ですよっち言うたげな。ね、もう本当にもう、私はもう本当に切のうてですね、泣こうごたる時に歌を歌う。
 そすとそれは、ね、悲しい歌である。ね、私あの、今日いう、その宗教的情操というのは、その程度のことにしかならん。だからそれによってその、雰囲気が良くなるとか、まぁ家を治めるというくらいなら出来るかもしれませんね。
 どんなに情けない思いをする時でも、鼻歌でも歌うて、はーお母さんは今日は機嫌が良いなと、その子供達が思う。近所の人でも、本当にあっちの嫁さんは、何時も(おがらか?)な人である。お掃除しながら何時も鼻歌どん歌うてから、お掃除しよんなさる。本当もうだから何時も、歌声が聞こえて来るから、周囲の者まで楽しいとこういう。
 (おうせ?)もう私が歌う程度でそげん楽しゅう聞こえますかのち。楽しく聞こえますよと。実は(おうせも?)私が歌ば歌いよっ時には、本当に切ない時である、苦しい時である、悲しい時だということを話たとこういう。ですから、これはやはりおかげにはつながる、又はその、家を治めるというような事だけには、役に立つかもしれんけれどもね、お徳にはつながらない。
 ですからね、せめてそのとこ辺のところまででも頂いて信心をして頂いておれば良いのだけれどもね、そういうところまでも努力しようとしない人がある、教えを聞かないから。ね、教えを聞かないから、(やっぱ苦しい?)ことはことは苦しい。悲しいことは悲しい。自分ひとりでこっそりと悲しまなきゃならん。自分一人でいうならば、苦しまなければならん。
 それを教えによって紛らかそうともしない。教えを頂いていないからです。教えは毎日こうやって頂いておってもです、ね、それを守らないなら頂いていないのと同じことでしょうが。
 教えを聞いていない。やはり(腹立つ時?)に腹立てとる。ね、情けないと思う時にはやっぱ情けないと思いよる。せめて歌でなっとんごまかすくらいな、その努力をすりゃ良いけれども、それもようしない。
 これではね、やはり向こう倍力の徳をさずけると仰るような、徳にさずかるという、さずけられるということはない、これでは。教えをね、本当にその頂かなければ、教えを頂くということはね、教えを聞かせてもらう、こう頂かせてもらう、それをね、頂くということは本当にそれを身を持って、心持って行じなければ。
 そこから生まれて来るものが、宗教させてもらう者でだけ、なければ頂けない感動である。そうでしょうね、それこそいうならば、まぁその今のそれを例でいうなら、その嫁さんであるならば、そういう例えば苦しい時悲しい時に、それを紛らかすために歌でも、鼻歌でも歌いながら仕事を続けられる。
 ところその、苦しいこと、悲しい事ということの実態というかね、そのことをよくよく分からせて頂いて、日頃頂いておる教えを持って、その苦しい事を頂くとです、鼻歌どん歌わんですむようになるて。
 なら例えばそこでですよ、鼻歌を歌ちゃならんということじゃない。本当に神様有り難うございますが出て来るのです。こっそりと苦しまんでよか。こっそりと泣かんでんよか。ね、その泣かねばならない、苦しい思いをする、その事の実態というものを日頃の教え、頂いておる教えを持ってそれを見るならば、聞くならばです、神様がこうして私をお育て下さってあるんだ。こうしてめぐりのお取り祓いを下さってあるんだと。
 それが頂けます、そこから生まれて来る宗教的感動ではなくて、宗教させて頂く者。宗教を本当に身を持って頂いて行きよる者でなからければ頂けない。普通でいうならば、悲しい涙の流れるような時に、歌でなっとんごまさなければおられないような時に、金光様有り難うございます、神様有り難うございますが言えれる。
 ね、そういう私はあの、おかげを頂かせてもらう。ね、そういう信心にです、神は向こう倍力の徳をさずけると思う。そういう信心が出来ていく時に、神は向こう倍力の徳をさずける。
 信心させて頂くならですね、信心させて頂く者でなからなければ頂けない、いわゆる心の動きというかね、いわゆる心の感動というものがです、味わえなければ値打ちがないです。十年例えば信心させて頂きよっても、そのお話は頂きよってもです、そのお話しを一つも聞きよらん。聞きよらん証拠には、やはり信心のないもんでん、腹かく時に、やっぱ自分も腹かきよる。
 信心のない者でも悲しむ時に、自分も一緒に悲しみよる。ね、というような例えばことでは、それはもう全然。しかしそういう信者が随分多いということですね。信心は頂きよる、いわば御理解を頂きよらんちゅうこと。
 ただ毎日お参りをしてきよるだけだというような信者。これは本当に、はーこれはもう私こそそげんとじゃなかじゃろうかと気付いたならですね。本気で御理解を頂く、私は御理解を解く時に思うんですけれどもね、いわゆるその、そういう信心の、者のだけに許された感動的な、その教えを、教えの頂き方をする人が非常に少ないです。
 まぁいうならば、もう目を輝かせてそのお話を頂いておる。今日はどういう御理解を頂くじゃろうかともう、楽しみいっぱいでそのご理解を頂くごとしておる。ね、感動がないですね。
 ですから、その、その、そういうその頂き方をしておりますとですね、その信心が段々身に付いて来てですね、いわゆる宗教的、例えば情操とかね、宗教的私は感動といったようなものは、段々身に付いてくる。
 だからなら今日私が言う、その神は向こう倍力の徳をさずけるというのはね、これではおかげは頂かれてもです、これは今のどっかの嫁さんが苦しい時に歌を歌いなさるというと同じようなものである、程度であってですね。
 その雰囲気を良くするとか、家を治めるとかというような役には立ってもです、そのそれが倍力の徳をさずけるという、徳が受けられるということではない。皆さんが今、一時の御祈念の後に頂くあの御理解が短いでしょう。だからか、皆さんが非常に楽しそうですね。あ、どういうところにあの楽しそうな風にしとる、もう三分か五分間ですむけんで楽しいのじゃなかじゃろうかと私は思うんです。
 朝の御理解やら、夜の御理解やらに、はー三十分間今から御理解頂かんならんと思うてから、あっち見たり、こっち見たりしてから、人の顔色ばっかり見よる人があるです。だけんこりゃ、ほらっちいうたっちゃ、自分ば呼ばれよるかなんか分からん。
 所々、もう一番始めから最後まで頂こうというようなその姿勢、態度がない。ところが昼の御祈念は、もうどうせ聞いたっちゃ五分ぐらいじゃけんで、楽しい。こりゃもう御理解は本当に短くしなきゃいけないのかなと思うくらいです。
 皆さん今度あれ又よう写していかれる。たまに、高橋さんがあそこへ掲示されますから、それ皆写して帰られる。本当にですね、私はあの思うんですけれも毎日、こうやってそのいわゆる新知識をですね、信心の新知識を日々こうやって頂かせてもらう。
 本当に自分でそれを吸収していくという、自分がそれが消化していかれよるというならですね、もう今の合楽での御理解はもうそれこそ、もうそれこそ飢えておるものがですね、食物を与えられたような勢いで入っていかなきゃならん程のみ教えですよ。
 それをただ聞くだけ、書きためるだけ。これではね、惜しいです。もう私が最近思うことは、もう金光様のご信者は、もう金光様なんだ、いわゆる教祖様の、そのあられ方というものをですね、身に付けていく以外にはないんだと、もう私はこう極限しているです最近。
 もう金光様のご信者だから、金光教祖のね、言われたことを守る。金光教祖の辿られた、例えばあり方、生き方というものを身に付けていく以外にはないと。それがどんなに泥臭い感じのする、例えば生き方であった、あろうが、それを私はその忠実にですね、頂いて行く以外にはない。
 そう思うたらですね、教祖の神様の仰ったお言葉。ね、そのお心。そのお心をもういっちょおく、といったようなものを今ここで頂いておるでしょうが。ですからもうそれは、もう丁度乾いた土地に水をまくように、ずーと吸収されなるようなものが、あらなければならんですけれどもですね。皆さんがそれを、それと、それほどに頂いていないのではなかろうかと。
 そう頂いたらです、今の難儀な問題がいっぺんにんね、変わるです。人間関係であろうが、様々な難儀な問題がですね、その要素が変わってくるです。教祖の神様のそういう、そのあり方を自分のものに頂こうという気持ちになったら、その教えを頂かず、頂こうとせずして、ただおかげば頂きたい、おかげ頂きたい。楽になりたい、楽になりたいでは何時まで経ってちゃおかげん頂かれん。
 ですから本当に御理解を頂くところの楽しみというか、まずそれを行じさせて頂くところの喜びというものがですね、次のいわば宗教て、的じゃない。宗教から生まれて来る感動がね、約束される。
 そういう宗教から生まれて来るその感動を持って日々の御用がなされる。人間関係の問題において、様々な難儀な問題の上においても、そういう有り難いという心でそれがなされて行く。だからおかげになって行くのである。
 私は本当にあの、教えを聞くだけではなくてね、聞く楽しみから、それを行ずる喜びというものがね、本当に必要だと。いや、惜しい、そう頂かなければ馬鹿らしい。十年経っても、十五年経っても、はーやっぱあっちはご信者さんだから違うといったようなものすらが、その人の身の上に信条になっていきよらんとするならですね、いわば教えは聞いておるようであって、聞いてはいないことになるのですよ。
 それでは馬鹿らしい。それでは例えば今日言う、ご理解十三節ね「神は向こう倍力の徳をさずける」というようなことにはなってこない。もう私達は十年お参りしよるけんで、目には見えんけれども、二十年分の徳を受けとるじゃろうなんて思うたったそれは、受けとるはずなか。
 参って来とるとはもうおかげで(たしひかれとる?)どっちかちいうならおかげの方が勝っとるかもしれん、借金を(とるのがこつ?)宗教させて頂く者の本当の喜びは、ね、その教えを行じさせてもらう喜び、その感動を持って一日が過ごされる。そういう感動を持って次の信心を求めていくというね、生き方にならないとです、それは徳になっていかんのです。そういう信心させてこそ、頂いてこそ初めて倍力の徳を受けて行くことが出来る。
 もう金光様の信心しよるけんで、少しは違う。そんくらいなこっちゃ駄目ですよ。もう金光様の信者になったら、金光様の信者になったようにね、からっとその変わらないけんですよ。
 もう本当に言う事、することが変わってこなければ、それ信心のないものでも、歯がゆい思いをするようなことでおかげの頂けるはずがないじゃないですか。そして、どうぞおかげ頂かせて下さいちいうてから、結局拝むことばっかり、頼むことばっかりが信心のように思うて十年も十五年間も今のように過ごしてきたというような人があることは惜しい事だと私は思う。
 だからまぁ、今言われる宗教的といわれるがその宗教的情操ぐらいは身に付ける。それだけじゃ馬鹿らしゅうなってくる。だから、もう宗教させて頂く者でなかなければ頂けない情操。
 聞く事によって宗教という情操が(つちかわれる?)ならばね、頂くこと、いわゆる行ずることによって宗教的じゃないね、宗教する者でなからなければ頂けない感動、情操が身に付いて来る。
 そういう信心が続けられて行くところに、「神は向こう倍力の徳をさずける」と仰るのは、そういう信心の上にお徳が頂けれるのです。これは家庭を治めるとか、雰囲気が良くなるといったようなことじゃない。
 そこには徳が受けられる、その徳にとものうて来るおかげ、いわゆる夢にも思わなかったようなおかげというようなおかげが展開してくる。これは徳の上に現れて来るおかげ。どうでも一つ自分をもう一遍、そうですね、まぁいっちょ教えを聞く楽しみといったようなものでもあるかどうかば一遍一つ、ようっとこれ自問自答してみてご覧。教えを頂く楽しみ。そしてこればもう書いて、ひかえていかなきゃおられない。
 それを書いておった家の嫁ごにでも、息子んでも話さずにおられない。ね、これはいわば聞く楽しみ。ね、今度はそれを行ずる楽しみ。楽しみというよりも行ずる喜び。ね、そこまでいっていない自分であると気付いたならばです、そうあらなければね、徳が、徳は受けられない。
 神は向こう倍力の徳をさずけると仰るのは、そういうあり方の上に、神様はお徳をね、お互いの信心が十なら、二十の徳を下さるに違いはない。そういう例えば、いうならば、そういうおかげを目指さなければいけない。
 どうでしょうか。本当に倍力の徳の受けられるようなね、行じて行く喜びの感じられておるような信心を頂いておるとするなら有り難い、それをいよいよ、もっともっと垢抜けしたものにしていかなければいけません。どうぞ。

梶原 佳行